【社長通信】ふるさとで喜寿を寿ぐ

猛暑の中で新型コロナウイルスもしつこく生き延びている。第6波とはケタ違いの感染力ではあるが以前のような危機感は薄いように思われるのは私だけか。

夏休みに入り、お盆の帰省時期とも重なる中で行動制限も出ず、コロナ疲れがあるのかもしれない。しかし、油断大敵、マスクの着用や手指の消毒などの基本はしっかりと守りたい。


さて、8月になると目立って多くなるのは戦争に関するニュースだ。特に今年はロシアによるウクライナ侵攻という国際ルール無視の戦闘が勃発し、未だ収まらない。

今日の可視化された社会、目の前で日々失われるそれぞれの命に思いをいたす時、殺さなければ殺されるという戦争の不条理、この厳しい現実に人間の悲しい性(さが)を想う。


戦後も長くなりあれから77年といわれるこの夏である。国民の8割超が戦後生まれといわれるなかで人々から戦争の記憶が薄れていくのは仕方がないものの、次のような句があるということを知っていただきたい。

「8月や 6日 9日 15日」である。

つまり、6日は広島に原爆が投下された日、9日は長崎に原爆が落とされた日。そして15日は戦争が終わった日といわれる。

しかし、私には終戦ではなく敗戦の日というべきと思う。

アメリカによる戦争を終わらせるために投下された原爆だが、その威力は絶大で人類を滅亡させる能力がある。その非人道性は戦後77年経った今日においても克服されず、核保有国が自己主張の手段として核を保持する行為など人類の持続可能性を危うくする今日の状況でもある。まさに人間の知性と理性が試されている。



ところで、私がこの世に生を受けたのも敗戦の年、1945年(昭和20年)3月である。

戦後何年といわれるように時代の歩みとともに戦後を生きてきた。

昭和22年から数年の第一次ベビーブームといわれる人口急増の世代とともに、戦後の貧しさを苦にもせず必死に生きていたように思う。昭和25年に勃発した朝鮮戦争は日本経済に特需をもたらし、昭和30年頃にはもはや戦後ではないといわれるようになった。

私が学生時代の頃はベトナム戦争に対する学生の反戦運動が盛り上がっていたが、ノンポリの私は傍観するのみであった。朝鮮戦争に続くこのベトナム戦争も日本経済の復興に大きく寄与した。昭和39年の東京オリンピックはまさに日本が戦後の復興を果たした証し(いわゆるレガシー)となった。


私が社会に出た昭和42年はオリンピック後で、景気はやや停滞気味だったが、その後本格的な高度経済成長期に入り活気のある時代であった。今日よりも明日はよくなると実感される時代であった。

学生時代のアルバイトの延長線上で職に就き、20代後半までは大した努力もせずに、酒に強いというだけで仕事が採れる、いわゆる接待営業全盛の良き時代でもあった。



そんな過去を顧みつつ、この8月に生まれ故郷の山形は庄内に帰省してきた。

77歳の喜寿を迎え、その祝いをどこでやるかと考えていたが、ふる里に居る高齢の兄と姉3人が元気なうちにと決断した。

子ども4人とそれぞれの連れ合い、それに孫7人を加えての総勢17人、全員集合とはならず15人がふる里に参集。コロナ禍2人の欠席は残念だったが、またの機会としたい。墓参の折、墓石越しに雲間から望む出羽富士・鳥海山の雄姿は、私に60年前の記憶をよみがえらせた。

”ふるさとは 遠きにありて 思うもの そして悲しく うたふもの(室生犀星)”

である。   

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